迷宮と聞いてどのようなイメージを持たれるだろうか?
私は二つのパターンがあると思う。
一つは迷宮を彷徨って出口を探すパターン。
こちらは地下から地上への脱出と言ったところか。
地上への出口を見つけて日常へ帰ってハッピーエンド。
映画で言えばCUBEか。
もう一つは迷宮を彷徨って宝物を見つけるパターン。
どちらかというと自ら地下へと潜っていく。
ダンジョンの最下層でお宝を手に入れてハッピーエンド。
わたしのブログで言うところの卓球迷宮とは二つ目のイメージである。
卓球という迷宮にお宝求めて潜ったものの、いまだ地下1階をうろうろするばかりで、最下層はおろか地下二階へ降りる階段すら見つからない。
最下層のお宝は漠然としすぎてイメージできないが、どんな相手でも軽々と勝てるようになることか。
もしかしたら地下二階に降りる階段は目の前にあるのかもしれない。
それを知っていても生来の気質が邪魔をして、寄り道脇道獣道をついつい楽しんでしまう。
用具しかり、技術しかり。
地下へ降りる最先端を敢えて避け、迷っている道中そのものを楽しむ大人の余裕?を込めたつもりだが、余裕どころか必死なのが現実だ。
ここで早速横道に逸れるのだが、1980年代に中学高校時代を過ごした私は、RPGと言えば3Dダンジョンゲームを思い出す。
当時家庭に普及し始めていたパソコンで、真っ先に遊んだのはThe Black Onyx。
年中暗闇に包まれた街の中を、地下へ降りる階段を探して随分と彷徨ったものだ。
この頃のゲームは親切さとほど遠く、私の友人など1年かけても肝心のダンジョン入り口が見つからず、町の人を殺して楽しむゲームだと勘違いしていたほどだ。
そしてもちろん古典的傑作Wizardry。
ワイヤーフレームで描かれたダンジョンは常に死と隣り合わせで、モンスターに殺されようものなら事前にセーブしていても基本的には復活できない。他のパーティーで探索して死体を持ち帰らないと、また一からやり直しになるのである。
そんなシビアなゲームなので、一つ下の階層に降りるということは、不安もあれば喜びも大きい。
少し潜ってはモンスターを倒して小銭と経験値をこつこつと集め、こまめに地上に帰って宿で休憩。
地道な努力を繰り返して、いつしかレベルも上がり装備も充実して、最下層のラスボスであるWerdnaを倒せば目的であるAMULET OF WERDNAを手に入れることが出来る。
貴重な青春真っ盛りである10代の何割かを費やして、ようやくエンディングを迎えたにしてはそっけないものだ。
こうしたゲームにおいて、ひたすらエンディングを目指した最速プレイというのは興味が無い。
行ける全ての場所は探索し、全ての宝箱を開け、全ての能力を手に入れ、全ての謎を解き明かす。
それが世界を作り出したゲームマスターに対する礼儀のようなものだ。
もちろん卓球において、全ての用具を試し、全ての技術を習得し、あらゆる大会を制覇し、全国津々浦々の卓球バーに出没する、何てことは不可能である。
それどころか用具はぐるぐる、技術はばったり、試合に出ることすらなく、卓球バーではぼったくられる寸前というのが現実かもしれない。
それでもそういう事全てを含めて楽しむ心意気があってこその卓球迷宮探索者である。
右手にラケット左手に盾、額にはヘッドライト。
目の前の階段には目もくれず、まだまだ地下1階を探索中である。
余談の余談だが、先に書いたWizardryの話には続きがある。
このゲームはエンディングを見るのが目的だったはずが、さらなるレベルアップをしたり、最強の装備を求めたり、他のパーティー構成を試したりするのがいつの間にか目的になっている事が多い。
そうしたことを考えた場合、迷宮の最下層でWerdnaを倒すと手に入るAMULET OF WERDNAは、かなり価値のあるアイテムで、このまま城に持ち帰ってしまって王様に献上するのは勿体ないとか思ってしまう。
そのようなプレーヤーはAMULET OF WERDNAを身につけたまま地下ダンジョンで生活するようになり、街へも帰らず宿で休むこともせず、ひたすらモンスターを殺して強力なアイテムを探しているうちに、自らもまた半ばモンスターの様な存在になっていくという、実に怖いゲームだったのだ。
そうして新たなWerdnaになったプレーヤーが、配下のモンスターを従えて地上を目指すゲームがWizardryIV Return Of Werdnaだ(という妄想)
このReturn Of Werdnaは、プレイして30分くらいでサジを投げてしまうくらい不条理なゲームだった。
ちなみにMac版はこんな画面。
プレーヤーステータスのプリントアウト機能とか、さすがはマック版だと感心したものだ。
海外のショッピングサイトから個人輸入したっけ。
やってることは今も昔も変わらない・・・
私は二つのパターンがあると思う。
一つは迷宮を彷徨って出口を探すパターン。
こちらは地下から地上への脱出と言ったところか。
地上への出口を見つけて日常へ帰ってハッピーエンド。
映画で言えばCUBEか。
もう一つは迷宮を彷徨って宝物を見つけるパターン。
どちらかというと自ら地下へと潜っていく。
ダンジョンの最下層でお宝を手に入れてハッピーエンド。
わたしのブログで言うところの卓球迷宮とは二つ目のイメージである。
卓球という迷宮にお宝求めて潜ったものの、いまだ地下1階をうろうろするばかりで、最下層はおろか地下二階へ降りる階段すら見つからない。
最下層のお宝は漠然としすぎてイメージできないが、どんな相手でも軽々と勝てるようになることか。
もしかしたら地下二階に降りる階段は目の前にあるのかもしれない。
それを知っていても生来の気質が邪魔をして、寄り道脇道獣道をついつい楽しんでしまう。
用具しかり、技術しかり。
地下へ降りる最先端を敢えて避け、迷っている道中そのものを楽しむ大人の余裕?を込めたつもりだが、余裕どころか必死なのが現実だ。
ここで早速横道に逸れるのだが、1980年代に中学高校時代を過ごした私は、RPGと言えば3Dダンジョンゲームを思い出す。
当時家庭に普及し始めていたパソコンで、真っ先に遊んだのはThe Black Onyx。
年中暗闇に包まれた街の中を、地下へ降りる階段を探して随分と彷徨ったものだ。
この頃のゲームは親切さとほど遠く、私の友人など1年かけても肝心のダンジョン入り口が見つからず、町の人を殺して楽しむゲームだと勘違いしていたほどだ。
そしてもちろん古典的傑作Wizardry。
ワイヤーフレームで描かれたダンジョンは常に死と隣り合わせで、モンスターに殺されようものなら事前にセーブしていても基本的には復活できない。他のパーティーで探索して死体を持ち帰らないと、また一からやり直しになるのである。
そんなシビアなゲームなので、一つ下の階層に降りるということは、不安もあれば喜びも大きい。
少し潜ってはモンスターを倒して小銭と経験値をこつこつと集め、こまめに地上に帰って宿で休憩。
地道な努力を繰り返して、いつしかレベルも上がり装備も充実して、最下層のラスボスであるWerdnaを倒せば目的であるAMULET OF WERDNAを手に入れることが出来る。
貴重な青春真っ盛りである10代の何割かを費やして、ようやくエンディングを迎えたにしてはそっけないものだ。
こうしたゲームにおいて、ひたすらエンディングを目指した最速プレイというのは興味が無い。
行ける全ての場所は探索し、全ての宝箱を開け、全ての能力を手に入れ、全ての謎を解き明かす。
それが世界を作り出したゲームマスターに対する礼儀のようなものだ。
もちろん卓球において、全ての用具を試し、全ての技術を習得し、あらゆる大会を制覇し、全国津々浦々の卓球バーに出没する、何てことは不可能である。
それどころか用具はぐるぐる、技術はばったり、試合に出ることすらなく、卓球バーではぼったくられる寸前というのが現実かもしれない。
それでもそういう事全てを含めて楽しむ心意気があってこその卓球迷宮探索者である。
右手にラケット左手に盾、額にはヘッドライト。
目の前の階段には目もくれず、まだまだ地下1階を探索中である。
余談の余談だが、先に書いたWizardryの話には続きがある。
このゲームはエンディングを見るのが目的だったはずが、さらなるレベルアップをしたり、最強の装備を求めたり、他のパーティー構成を試したりするのがいつの間にか目的になっている事が多い。
そうしたことを考えた場合、迷宮の最下層でWerdnaを倒すと手に入るAMULET OF WERDNAは、かなり価値のあるアイテムで、このまま城に持ち帰ってしまって王様に献上するのは勿体ないとか思ってしまう。
そのようなプレーヤーはAMULET OF WERDNAを身につけたまま地下ダンジョンで生活するようになり、街へも帰らず宿で休むこともせず、ひたすらモンスターを殺して強力なアイテムを探しているうちに、自らもまた半ばモンスターの様な存在になっていくという、実に怖いゲームだったのだ。
そうして新たなWerdnaになったプレーヤーが、配下のモンスターを従えて地上を目指すゲームがWizardryIV Return Of Werdnaだ(という妄想)
このReturn Of Werdnaは、プレイして30分くらいでサジを投げてしまうくらい不条理なゲームだった。
ちなみにMac版はこんな画面。
プレーヤーステータスのプリントアウト機能とか、さすがはマック版だと感心したものだ。
海外のショッピングサイトから個人輸入したっけ。
やってることは今も昔も変わらない・・・
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