五感から呼び起こされる感情の記憶がある。
 自転車をこぎながら受ける風の強さや都心の交差点で信号待ちをしているときのエンジン音、夏の暑い日に近所の家から漂う醤油だしの香り、田舎饅頭を口にしたとき舌の上に残る重曹の苦み。
 日常的によくあるそうした何気ない刺激が、普段は意識していない感情の記憶を呼び起こす。
 特別な記憶では無い。
 むしろ当たり前の、時間も場所も定かでは無い、霞のかかったような記憶だが、何故か鮮やかな感情へ結びついている。
 それは物心も付かぬ幼い日の記憶もあれば、つい最近経験した記憶の場合もある。
 
 ある特定の場所も引き金となり得る。
 その場所を通り過ぎるとき、楽しかった記憶、楽しいことが待っているという期待感、そういった感情が心の奥底から湧き出て、理由が分からず混乱するときがある。
 なぜこんなに幸せな気持ちになるのか。
 どうしていつもここに来ると嬉しさでいっぱいになるのか。
 
 
 ちょっと前までは、家族3人で卓球を楽しんでいた。 
 今は部活を引退してしまった娘と、体が不調で練習から遠ざかっている妻。
 練習場所は公民館、コミュニティセンター、体育館、公園の卓球場、この4カ所だった。
 その時はあまり意識していなかったが、夫婦や家族で卓球で遊ぶことがよほど楽しかったらしい。
 他の用事であっても、上記のような場所に向かう道に出ると、薄暗い公民館で遊びながら練習したことや、娘と二人で何台も台出しをした体育館、まだ始めたばっかりでまともに打てなかった私と公園の卓球場で打ってくれたときの妻の表情などが、つい昨日のように蘇る。
 卓球のことを思い出すのではなく、楽しかったという感情だけが蘇るときもある。
 なぜこんなに楽しく幸せな気持ちになるのかと不思議になり、あれこれ記憶を遡った結果、そうか卓球の記憶だったかと思い至る。
 公民館の予約をするために、早朝から自転車をとばしたことや、毎回先着争いをしていた男性と競争になったことや、結局予約を取れずにガッカリして帰宅したことも、今となっては楽しかった記憶として残されている。
 実際に練習したことより、練習に向かう時の事を良く覚えていて、それは今でも変わらない。
 これから卓球の練習をするぞ、という幸福感はなかなか他では得がたいものだ。
 

 そういうわけで、公民館へ続く曲がり角に立つと、いつでも私の顔は自然とほころんでしまうのだ。