僕の手元に1本のくたびれた卓球ラケットがある。

上板が剥がれ、縁が欠け、グリップが黒ずんだそのラケットは、確かに6年間娘と共にあった。

高校生になって卓球から離れた娘のルミは、今まで打ち込んだ情熱などきれいさっぱり忘れたようで、部屋の片隅に放ってあったラケットを僕が引き取ることを申し出ても何の感慨も見せず、ますます僕を落胆させた。


僕とルミは同時に卓球を始めた。

卓球の相手を探していた妻が、手っ取り早く夫と娘を引き込む事を思いついたのは、ルミが小学校4年生の時だった。

サッカー少年団に所属していた長男の龍三郎のオマケのような存在から、自分が主役になれるのが嬉しかったのだろう。ひわた市主催の卓球教室で僕と妻と一緒に練習するだけでは満足せず、隣のきわせ市で活動していた卓球サークルに加入して、あっという間に僕との差を広げていった。


ひわた市もきわせ市も、小学生女子の卓球人口はとても少ないので、一回勝てば決勝戦ということも珍しくなかったが、入賞する喜びを経験できたことは意味のあったことだと思う。

その頃の僕はといえば、まともにフォア打ちもできないありさまで、ルミが6年生になる頃には全く敵わなくなっていた。もちろんそんなそぶりはルミの前では見せなかったけど。


ルミはとにかく負けず嫌いで、僕や妻が相手でも負けそうになるとよくふくれっ面をしていた。

僕は楽しく遊べればそれで良かったので真剣に打ち合うことも無かったけど、ルミ以上に負けず嫌いの妻は思いっきり打ち込んではルミを泣かせていた。

「泣くからあんたとは打ちたくない」

なんていう妻のセリフを何回聞いたことか

聞いているこちらはハラハラしっぱなしだった。 


この頃だったかな。

WRMのセールにルミと2人で出かけて、僕がラケットにイラストを描いてもらったら店を出た後自分のラケットにも描いてもらうようお願いして欲しいとしつこく言ったり、ラバーを買ってあげたらすぐに使ってみたいからと自宅に戻ってすぐに着替えをして卓球場に行ったり、市のプール内にある卓球場で汗を流した後そのまま着替えてプールに飛び込んだりしたのは。


土星プロ 水星2ブルースポンジ パナメラ(中国の表ソフトだ) オリジナルエキストラ ハモンド ザルト プラクソン350 

僕の用具研究に基づいて色々貼り替えたけど、喜んでくれていた頃は可愛かったなあ。



中学生になったルミは、親の期待通り卓球部に入部した。

卓球ブームといえるタイミングだったので、入部した生徒は多かったけど、経験者はほぼルミ1人だったようだ。

昔は強かったとはいえ、近年の六方中学女子卓球部はぱっとしない実績を積み重ねていた。


僕も妻も楽しく卓球をしてくれれば良いな、くらいに考えていたので勝敗はどうでもよかったんだ。

けれどもルミは違ったらしい。

個人戦より団体戦。

自分が勝つことよりみんなで勝ちたい。

そんな気持ちはいつしかみんなに伝わったんだろうね。


2年生まではルミ1人が強くて、何度も県大会に出場して県ベスト16とか32とか、ひわた市では名の知れた存在になっていたんだ。

なにしろ道を歩いていると他の学校の女子卓球部員から声をかけられ、卓球場で僕や妻と練習していると他校の男子卓球部員から試合を申し込まれ、試合に出ると「あれがルミさんよ」と周りがざわざわし、一緒にいた妻は「ルミさんのお母さんですね」と見知らぬ中学生から挨拶されるような、まるでマンガの登場人物みたいな存在になっていたのだ。


そしてルミの同級生達も真面目な子が多かったのだろうね。

一生懸命練習をして、いつしか市内でも優勝候補の一角と言われるようになっていたんだ。


そして中学3年生の最後の大会。

市の体育館で決勝を争ったのはライバル校の千早台中学。

僕は見に行けなかったけど、間近で見ていた妻によれば団体戦は大接戦の末負けてしまったらしい。

個人戦の準決勝の相手も千早台中学のエース。

ルミもちょっと前までは市内敵無しだったけど、さすがに3年生にもなると他の子も上手になっていて、特にこの千早台中学の子にはルミも練習試合では勝てなかったとは妻の談。

身内の妻の言うことだから話半分で聞いて欲しいけど、この個人戦準決勝は取ったり取られたりのもの凄い激闘だったんだって。

最後には実力以上の力を発揮したルミが試合を制して、握手しながら感極まって大泣きしたっていうから、相当嬉しかったんだろうね。

そのまま決勝も勝ったルミは見事県大会出場を決めたんだ。


市内大会が終わって同級生達はみな引退したんだけど、県大会に1人出場するルミのために、何人か自主的に練習相手を勤めてくれた。ホント嬉しいよね。


みんなで一緒に県大会出ることを目標にしていたルミは、1人参加した県大会ではモチベーションが上がらぬまま一回戦で嘘のようにボロ負けをして帰ってきた。

頭の中は高校受験で一杯だったのか、市内大会団体戦敗退の時点ですでに中学卓球は終わっていたのか、不思議とすっきりした顔だった。



高校生になったルミは卓球部を選ばなかった。

「卓球もやりたいけど他にももっとやりたいことがある。

卓球が嫌いになったり飽きた訳じゃないよ。」

ガッカリする僕を慰めるように言うルミの表情は随分大人っぽくなっていた。
 

僕はちょっと恥ずかしくなって視線をそらした。

すると不意にあの頃のルミの姿が蘇る。

ふくれっ面でラケットを振るルミと、同じくふくれっ面で打ち返す妻。

ふくれっ面だけど、2人とも目は笑っているじゃないか。

何だ、やっぱり卓球が好きなんだな。

僕は何だか可笑しくなった。


ルミはきっとまた卓球を再開する。
何年後、何十年後かは分からないけど。
高校を卒業して、大学生になって、社会人になって、結婚して、ある日急に思い立って卓球を再開する。
その頃には結婚して子供がいるかもしれない。
ふくれっ面をして練習をしている子供に向かって、「私はあなたくらいの時はもっと強かったのよ」、と言っているかもしれない。

その時のために、上板が剥がれ、縁が欠け、グリップが黒ずんだラケットを僕は大事にしまっておくことにしよう。
君が再び卓球と出会う日まで。